キープ協会について
Kiyosato Educational Experiment Project(清里教育実験計画)の頭文字がキープの由来です。
キープ協会は八ヶ岳南麓に、約240ヘクタール(約東京ドーム50個分)の敷地を持つ公益財団法人であり、「清里の父」と呼ばれている米国人のポール・ラッシュ博士によって1938年(昭和13年)に建てられたキリスト教指導者研修施設の清泉寮を母体とする団体です。
清泉寮の創立以来、山梨県から貸与されたJR清里駅前から八ヶ岳横断道までの広大な土地を拠点に様々な先進的な事業に取り組んできました。
第二次世界大戦後、日本の農山村における新しい農村コミュニティの建設を通して、キリスト教に基づく民主主義を社会に普及、定着させることを目的に「清里教育実験計画」はスタートしました。ポール・ラッシュ博士は、農村の問題を解決することを目指して「食糧・保健・信仰・青年への希望」の4つの理想を掲げ、それらを実践する施設として清里聖アンデレ教会を始め、高冷地実験農場、聖ルカ診療所、聖ヨハネ保育園、農村図書館、農業学校などをアメリカやカナダなど多くの市民からの寄付によって各施設を建設・運営しました。
その後、キープ協会では、創設者ポール・ラッシュが掲げた「人類への奉仕」の4つの理念「食糧・保健・信仰・青年への希望」に「環境教育」「国際協力」を加えた6つのテーマを事業方針としております。2012年に公益財団法人の認定を受け、それまでの財団法人キープ協会から公益財団法人キープ協会に移行しました。
キープ協会の創設者 ポール・ラッシュ博士
ポール・ラッシュ博士はケンタッキー州出身で、関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCAを再建するため1925(大正14)年に米国の国際YMCAから派遣され、初来日しました。その後、キリスト教日本聖公会の主教の依頼により、ミッションスクールであった立教大学で、日米開戦で強制送還されるまで教鞭を取っていました。
この間、東京の聖路加国際病院建設の募金活動、日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)の設立など多くの社会事業に尽力し、その青少年訓練清泉寮キャンプ場として1938(昭和13)年、山梨県八ヶ岳山麓の清里に清泉寮を建設しました。
また日本のアメリカンフットボールは、1934(昭和9)年ポール・ラッシュ博士により組織化され、後に、日本アメリカンフットボール協会は「日本アメフトの父」の称号を捧げ、現在も日本一決定戦ライスボウルにおいてMVPにポール・ラッシュ杯を授与して、博士の栄誉をたたえています。
日米開戦により強制送還された博士は、ただちに米国陸軍日本語学校に志願し日系2世兵の指導に当たるとともに、米国各地の教会で、戦争後の日本救済への支援協力を訴えて、講演活動を行いました。そして終戦と同時に、GHQ将校として東京に戻り、マッカーサー元帥の理解を得ながら、戦禍で疲弊した日本社会の再建活動に取り組んだのです。
博士の日本復興支援は清里にとどまらず、戦時中軍部に弾圧された立教大学や日本聖公会、アメリカンフットボールの復興、聖路加国際病院の再生などにも多大な尽力をしました。
また、神奈川県大磯で混血孤児の親代わりとなって養育した澤田美喜さんの「エリザベスサンダースホーム」の創立・運営を支援し、孤児たちのゴッドファーザー(洗礼親)を引き受けました。
亡くなる直前、英国からカンタベリー大主教が、清里で病床にあったラッシュ博士をお見舞いされ、人類への奉仕と神の栄光を地上に顕したことに感謝の言葉を伝えたのです。彼の最後のそして最大の栄誉となりました。1979(昭和54)年、聖路加国際病院で82年の生涯を閉じました。
キープ協会の働きを通じて、日米の民間交流の手本を示し、亡くなるまで日本を愛し続けたポール・ラッシュ博士。その最期に身の回りの財産は、聖書と万年筆、何着かのスーツ、そしてパジャマと歯ブラシだけ。家庭も貯蓄も持たず、一生を日本への無償の愛のために捧げたのでした。 博士の遺骨は清里聖アンデレ教会納骨堂に安置されております。
キープ協会略年表
清里農村社会施設(コミュニティ・センター)建設構想によりスタート
聖ヨハネ図書館開館
信仰の確立、青少年の希望をテーマに活動開始
農場でジャージー牛飼育開始
清里聖ヨハネ保育園開園
アウトリーチ・ステーション(弘道所)活動開始
ポール・ラッシュ博士逝去
フィリピン農山村交流援助事業ツルガオ・プロジェクト開始
ポール・ラッシュ祭~八ヶ岳カンティフェア'88開催